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今後とも現状のような波風が立たない状況が続くか、あるいは最近登場した介護保険が台風の目となって医療政策が再び政争の渦中の課題となるかどうかを見極めるためには、まず現在がどのような政策的環境にあるかを見なければならない。
これまで競技の参加者と、政策が戦われた場について述べてきたが、そもそも厚生省と日本医師会はそれぞれどのような政策理念に基づいて行動してきたのであろうか。
一言で言えば、それは次のようである。
・厚生省は「公衆衛生の実践」であり、具体的には、すべての地域住民の健康水準の向上を目的として、行政が立案した計画に従って医療が提供されるような体制が目標である。
・日本医師会は「プロフェッショナルとしての自由」であり、具体的には、それぞれの医師が長い臨床経験によって「芸」として高めた医療を、だれにも拘束されることがなく、各々の患者のニーズに応じて提供できるような体制が目標である。
つまり、厚生省が「官」を主体とした医療体制を目指したのに対して、日本医師会は民である「医師」を主体とした医療体制を目指してきた。
両者が激突したのが昭和三〇年代前半から四〇年代前半にかけて武兄が日本医師会長として全盛を極めた時代であった。
昭和五〇年代前半になると、両者はともに消耗したために比較的無風な時代となったが、五〇年代も後半に入ると厚生省主導による医療費抑制の時代となった。
こうした状況下で種々の新たな考えが登場してはいるが、従来からの二つの政策理念を置き換えるほどには至っていない。
厚生省にとっての、「公衆衛生」モデルは、学術的根拠を与えるという面からだけでなく、内務省から受け継いだ家父長的伝統からしても、またかつては大きな比重を占めた伝染病対策という実務上のニーズにもかなった目標であった。
第章で述べるように、この目標をほぼ達成したのが戦争中であり、当時医師のほぼ大半は大日本医師会の統制下に置かれ、また主だった病院も昭和一七二九四二)年に設立された日本医療団に統合されていた。
仮に戦争中の厚生省の政策が敗戦後もそのまま続いていたならば、おそらく日本の医療体系はイギリスのような完全に社会化さわた国営医療となっていたであろう。
確かに戦時下の陸兵健民の政策は敗戦によって完全に否定され、また戦前における医療の社会化を推進したビスマルク的な左翼対策も前面には出せなくなっていたが、戦後はベバリッジが提示した福祉国家の建設という目標を掲げることによって「公衆衛生」モデルの実践を正当化することが可能であったからである。
しかしながら、厚生省は戦時下に作った官主導の医療体系を維持することはできなかった。
内務省は解体され、日本医療団を始めとする統制体制も崩壊した。
大日本医師会も占領軍の指導により、アメリカ医師会をモデルとした任意参加の日本医師会に改組された。
その過程で、第二章で述べるような江戸時代から続いた自由開業医制度が再び優勢になり、それを旗印とする日本医師会が医療政策において発言権を強化していった。
そして前述の武見会長時代に厚生省と伍して厚生省の公衆衛生モデルとは、具体的には治療よりも予防や検診に重点を置き、国や地方自治体が定めた医療計画に基づいて、公的病院や保健所を中心に医療が提供される形態である。
医師は全員公務員になるわけではないが、診療内容(および所得)は政府の強い指導下に置かれることになる。
こうした官主導の統制的な考えは、戦後占領軍によって一旦は否定されたものの、水面下で厚生省に根強く残っている。
一方、日本医師会にとっては、患者の利益を第一に考え、最良の医療を提供する技術的な能力を持っているので、個々の医師がプロフェッション(専門職)として自由に活躍できる環境であるのが最も望ましい。
したがって、政府が治療方法について指針を示したり、保険者が医療内容を点検することには当然ながら反対である。
とくに被用者保険の代表である健保連は、医師の行う医療行為を厳しく詮索したり、事務量を増やす推進者として攻撃の的となった。
そのため、日本医師会としては、健康保険を再編し、国民すべてが地域保険に加入する(いわゆる医療保険の統合一本化)体制を確立することが目標であった。
日本医師会が提唱した「地域保険」において、都道府県が保険者になるのか、あるいは市町村がなるのかは具体的に明らかにされなかった。
ただし、国保診療所に対する根強い警戒感から、おそらく市町村が保険者になることは想定されていなかったと考えられる。
両者は医療の理想像についてこのような高尚な次元で論争したというよりは、むしろそれぞれ相手を誹讃することに多くの時間を費やした。
日本医師会は、厚生官僚は患者の利益などを考えておらず、自分たちの権限の拡大と管理体制の強化にのみ腐心していると非難した。
一方、厚生省は、強欲な開業医に日本の医療を任すことができないと反論した。
しかしながら、両者の関係は一見するとこのような激しい対立によって特徴づけられるが、少なくともアメリカなどと比較すれば、医療に関する基本的な考え方については以下のように一致する面も多かった。
なお、これらの点は、おそらく国民各層からも広く支持されていたであろう。
政府は少なくとも財源の確保という面においては、積極的な役割を果たすべきである。
つまり、医療サービスの提供方法については官を主にするか、民を主にするかで対立しても、財源面については官に大きな責任があることには異論がなかった。
国民全員に平等な医療を提供することを最優先する。
連に言えば、医療の質の向上よりも、だれもが同じレベルの医療を受けられるようにすることが優先される。
上記を達成するための最大の課題は、病院や診療所の整備という医療サービスの量的拡大である。
以上のような基本的な合意があったため、実際の争点はイデオロギーよりもお金や権力にあった。
端的にいえば、厚生省は医療費を抑制しょうとし(医療費の抑制は一定の財源のもとでの量的拡大を図るためにも必要)、日本医師会は医師の所得の拡大を図ろうとした。
そして、昭和五〇年代の前半までは一般に医師会側が戦いを有利に展開していた。
権力については、話がもっと複雑であり、厚生省の目的は医師の診療内容を統制することにあり、日本医師会の目的は政策決定において指導性を発揮することにあった。
両者の抗争は、サムウエルスが「相互了承」(種々な場面で抗争が行われ、それぞれの状況における力関係の変化によって結果が変わる)と呼ぶ状況をもたらした。
日本医師会は政治的に優位にあったので個別の戦いには勝ったものの、厚生省に完勝して医療体系を抜本的に作り替えるほどの力はなかった。
その結果、昭和四〇年代後半には、一応の妥協策として、お金の面では日本医師会に有利に、制度面では厚生省のほうが優位な体制が成立した(第四章参照)。
以上のような両者の争いによっても、結果的に政策展開が大きく異なるようなことはなかったが、日本医師会という政府以外の団体が、医療に対して政府とは異なる理念を提示し、その実力を背景に政策面において反映させたことには意義がある。
日本では政府への批判はとかく左翼運動の中で行われてきたと認識されているが、むしろ日本医師会のような民間団体が政府に対して挑戦できたことが、医療の領域を超えて、戦後の民主主義の形成過程という面からも注目するべきところであろう。
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